玉藻公園
(史跡高松城跡)

 高松や松山を巡拝するとき、神戸からフェリーで早朝高松に到着する(大阪・神戸から一番安く行ける)。私にとっては、四国の玄関口 高松。すぐ前にJR高松駅 やことでん高松築港駅、バスターミナルがある。

(2009年)

     
 高松城は、豊臣秀吉家臣生駒親正が1588年天正16年築城に着手、1590年天正18年完成。海岸に面する珍しい城(海城)だったらしい。明治以降、 海岸は埋め立てられ、天守閣を含めほとんどの建物が取り壊され現存部分は国の史跡となっている。面積は79,587u(約2万4千坪)。国重要文化財 高松城四棟、北之丸月見櫓・北之丸水手御門・北之丸渡櫓・旧東之丸艮櫓などが現存する。
 一度壊した天守閣を新たに建設する計画があるらしい。国の認可が下りないまま、すでに修理という名目で石垣を解体してしまったとの事。見切り着工で 既成事実を作り天守閣建設 の許可を得ようというもの。どこかの悪徳企業と同じやり方だ。そんなものと言っては申し訳ないが、絶対に認可すべきではない。公共機関がやり得の手本を示すようなものだ。私にはコンクリートのお城にどれほどの価値があるのかわからないが、失われたものを擬似再生するより、今現存するもの、今生きている人を守るほうが大切です。 他に為すべき事があるとおもうのですが。公園は今のままおいておいて充分に美しい。 でも、きっと幼稚園児や小学生の遠足以外には人の来ない鉄筋コンクリートの天守閣は出来てしまうんでしょうね。毎年の維持費に、香川県民高松市民のどれくらいの 税金が注ぎ込まれるのか楽しみですね。よそ者の大きなお世話でした。   玉藻公園管理事務所 TEL087-851-1521
 
 玉藻公園の向かいには、JR高松駅に続くサンポート高松という巨大施設がある。Wikipediaによると、サンポート高松整備事業に伴う西の丸の発掘調査では多くの遺構が発見されたが、その後一般に公開されることもなく埋め戻され、周りと同様に市街地化したとある。
 このサンポート高松、高松シンボルタワーには大手企業のオフィスやホール、レストラン、隣に全日空ホテルなどがあり、高松駅前にもかかわらず中は人通りもなく静かなところ。小休止におすすめ。
   タワー棟  地下2階、地上30階、塔屋1階、高さ151.3m(アンテナ除く)
   ホール棟 地下2階、地上7階、塔屋1階、高さ44.8m
     〒760-0019 香川県高松市サンポート
 
資料 (解説板)
史跡 高松城跡

 高松城は別名玉藻城ともいい天正15年(1587)豊臣秀吉から讃岐に封ぜられた生駒親正が翌16年(1588)に工を起し、約3年の歳月をついやし天正18年 (1590)に完成したが、その縄張り、つまり設計は当時有名な築城家黒田孝高(如水)がしたとされている。この高松城は全国にも珍しい水際城(一般には水城) の跡である。昔から「讃州さぬきの高松様の城が見えます波の上」と謡われていた。生駒家が4代54年と、寛永19年(1642)常陸国下館から松平頼重(水戸光圀 の兄)が封ぜられて以来明治に至るまでの、松平家11代228年の居城として、讃岐の政治、経済、文化の中心地となったところである。城跡は昭和29年1月16日 松平公益会から高松市が譲り受け、翌30年5月5日『玉藻公園』として一般市民に開放した。また、彦根城と姉妹城縁組をしています。これは、井伊大老の次女、 千代姫が第11代高松城主松平頼聡の奥方として輿入れしたことから昭和41年8月15日結ばれたものです。城跡は天守閣跡や石垣、堀などが遺存し国の史跡 指定となっている。
 
重要文化財
 高松城北之丸月見櫓(続櫓)、水手御門、渡櫓
    昭和25年(1950年)8月29日重要文化財指定

高松城(玉藻城ともいう)を築城した生駒氏の治世は4代54年間続きましたが、寛永17年(1640年)に出羽の国の矢島1万石(秋田県由利郡矢島町)に移封 されました。その後、寛永19年(1642年)松平頼重公(水戸黄門の兄)が東讃岐12万石の領主に封ぜられてこの城に入って以来、明治2年(1869年)まで11代 228年間、松平氏の居城であり、日本三大水城(みすしろ)の一つに教えられています。
 月見櫓は、松平氏入封以後新たに海面を埋め立てて作られた郭(くるわ)の隅櫓(すみやぐら)として延宝4年(1676年)2代頼常公の時代に、完成されたものです。 ことに渡櫓は生駒氏築城による海手門を改修して建てられました。かつて、これらの櫓の外まで海であって、船からこの水手御門を経て、直ちに場内へ入れるようになって いたところからみて、この櫓は海手出入の監視防備のための隅櫓であったものとおもわれます。月見櫓の特色としては、内部に初層から三層の屋根裏まで通じる4主柱 が中央に通っていて、それに梁をかけて組立てていることや外壁に装飾的な黒い長押を廻していること、軒は垂木形を塗り出さず一連の大壁としていること、月見櫓より 渡櫓に至る一連の建築構造美などが挙げられます。これらの諸建物は松平家から松平公益会に移管され、さらに昭和29年(1954年)1月に高松市が譲り受け、 翌年3月から国庫・県費補助を得て解体復元工事に着手し、約1700万円を費やして同32年(1957年)3月に竣工しました。

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